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2020.11.05 (木)

「 設立当初から「赤い巨塔」の学術会議 」

『週刊新潮』 2020年11月5日号
日本ルネッサンス 第924回

日本学術会議は一体どんな組織なのか。歴史を辿ると設立当初から、日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)及び日本共産党と、深い関係にあったことが見えてくる。

10月23日、シンクタンク「国家基本問題研究所」で東京大学名誉教授、唐木英明氏の話を聞いた。唐木氏は2000年に学術会議の会員となり、08年~11年の3年間、同会副会長を務めた。

氏によると、1946年6月、GHQ科学技術部は東大の茅誠司氏らに科学渉外連絡会を設立し、日本のあるべき科学研究体制を研究するよう勧めた。5か月後、GHQ科学技術部は科学者の新体制作りを指示した。唐木氏の説明だ。

「占領軍は日本の原子力研究を禁止したのに加えて、理研、阪大、京大のサイクロトロン(加速器)を破壊したりしました。この極めて荒っぽい政策は米国内でも批判されました」

ひたすら日本の底力を破壊しようとする蛮行を見て、GHQの側に科学を理解する人材を加えるべきだという認識が生まれ、48年に物理学者のH・C・ケリー氏が招聘された。ケリー氏の指示で誕生したのが日本学術会議だったという。

それでも当初の学術会議はGHQ内部で暗躍したニューディーラー(その多くはアメリカ共産党員だった)の考えを受けて、世界的に例のない過激な政策を掲げた。

再び唐木氏の説明だ。

「たとえば、最高科学者会議を設けて、彼らが科学および教育に関するあらゆる政策、研究費の予算配分を決定し、国会決議を得たうえで政府にその執行を命令し、監督する権限を持つ。最高科学者会議のメンバーは科学者が直接選挙で選ぶなどという過激な案でした」

科学者による絶対支配体制を提唱したわけだが、当時、科学者の多くはアメリカを帝国主義の国と見做し、彼らの資本主義が日本に浸透することに反感を持っていた。

共産主義者の後ろ盾

日本学術会議は1949年1月に発足したが、前年12月に学術会議の会員210名を選挙で選んだ。唐木氏は『通史 日本の科学技術』の第1巻『占領期1946─1952』(学陽書房 中山茂・他編)を引用し、ざっと以下のように説明した。

210名の定員に944名の候補者が立った。共産党候補者は61人、内26人が当選。加えて40名ほどの同調者も当選した。共産党の影響下にあった民主主義科学者協会(民科)の候補者は、総会員数の1割(21名)以上を占めていた。

民科系候補者の正確な当選者数は定かではないが、共産党及び同系統の学者たちは学術会議の3分の1に迫る66名ほどの勢力を形成したことになる。彼らは頭もよく、論も立つ人々であったろう。その一群が絶対的権力者であったGHQ内の共産主義者の後ろ盾を得ていたのだ。どれ程強力な影響力を持っていたことか。そうした中で50年、「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」という声明が出された。

他方、政府は新しいエネルギー源を目指して55年に原子力関連の研究に乗り出した。学術会議会長の茅誠司氏、国立大学協会会長の矢内原忠雄氏らは反対し、原子力委員会設置法に「原子力利用に関する経費には、大学の研究経費は含まない」との付帯決議をつけさせ、わが国の原子力研究の道を狭めた。

現在に至るまで学術会議は国防研究も禁じているが、原子力研究の制限も、学問の自由への挑戦であることに変わりはない。

政府は対抗して56年に原子力委員会をつくり、同時に科学技術庁も設置した。その上で原子力委員会を科技庁の所管とした。

「政府は左翼系科学者の影響下にある学術会議への対抗策として、学術行政の支配権を取り戻すために科技庁を創ったのです」と唐木氏。

学術会議がもっていた科学技術に対する司令塔としての役割及び研究助成を全て、科技庁に移した。続いて59年には科学技術会議が設置され、学術会議の中心議題も全てこちらに移された。67年には文部省が学術審議会を設置、科学技術だけではなく、人文・社会科学についても全ての学術審議が移された。80年代には各省庁が審議会を設置し始め、学術会議はすることがなくなってしまった。

長年学術会議の会員を務め副会長も務めた唐木氏は、69年から77年にかけて日本学術会議は自己点検をし、改善すべきところは改善しようとしたと語る。が、結論からいえば彼らは政府との全面的対決を選んでしまったのだ。

82年、中山太郎総務長官が学術会議の改革を提議したが、学術会議側は突っぱねた。その後、政府、学術会議の双方が有識者会議を次々に開いて対抗する非常に厳しい対立の時代が続いた。この間の詳細は割愛せざるを得ないが、国民の視点から言えば、学術会議は自らの利益のために活動する一方で、国民全体、或いは国に対する貢献は考えなくなったとしか見えない。

自民党の油断

90年代から00年代にかけての行政改革では学術会議も対象になり、彼らは05年に改革を打ち出した。➀社会全体に関わる問題について専門性を持った科学者が集まって総合的・俯瞰的な視点から提言する、➁欧米主要国のアカデミーの在り方に学び、10年以内、つまり15年には、より適切な設置形態を検討する、などである。

菅義偉総理の言う「総合的・俯瞰的視点」の意味が分からないなどと学術会議側は言うが、それは自分達が言い出した表現であろう。

多少反省し軌道修正に向かったかに見えた学術会議は、しかし、09年に民主党政権が誕生すると、またもや改革の歩みを緩めた。民主党は学術会議に非常に好意的で、諮問もせず、ただ学者の皆さん頑張ってという姿勢で学術会議にとってはラクな期間だったという。

そして見直しをする15年が来たとき、驚くことに自民党政権下の有識者会議が学術会議の現状維持を諒としたのだ。有識者会議には多くの学術会議関係者が入っていて、ほとんどお手盛り会議だったとの批判はあるが、自民党の油断である。

民主党政権は原子力規制委員会と規律の緩んだ学術会議という悪しき遺産を残した。いずれも、自民党は根本から変えるチャンスがあったのに何もしなかったのは事実である。

学術会議側は、菅首相が6人を任命しなかったのは学問の自由の侵害だと言う。とんでもない間違いだと唐木氏は強調する。学問の自由とは研究の自由、発表の自由、教育の自由を指す。だが学術会議は研究機関ではないため研究も教育もしない。発表するのは学術会議の中での検討事項だけで、学問の自由と学術会議は全く無関係だ。ここまでくれば学術会議は民営化するのが一番だ。

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